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2010年10月15日 (金)

死の恐怖に怯えるわが子②

 息子の通う幼稚園のご父兄の方から頂戴したご質問へのお返事の続きです。はじめて読まれる方は、10/14付質問の部屋の「死の恐怖に怯えるわが子」を先にお読みください。

 前回、赤ちゃんは入眠の際に自分の存在が消えてしまうという恐怖心を抱くとお話しました。乳幼児が眠る際にぐずったり、寝ぐじを言ったりしてお母さんを困らせるのは、実は「死にたくない」と恐怖と闘っているからなのですね。ご存知のように、授乳という行為は哺乳動物のいずれにも見られる、見るもの誰もをやさしい眼差しにしてしまう、微笑みと安堵の世界といえますが、人間の赤ちゃんだけが他の動物の赤ちゃんと異なり、自分からお母さんのおっぱいに向かっていき、吸いつくという行動をとることができません。つまり、お母さんに抱き寄せてもらえないかぎり、おっぱいを飲むことができないのです。

 実はこの「抱き寄せてもらう」という人間固有の授乳の仕方は、赤ちゃんが人間の世界で生きていくために欠かせないことなのです。それは、自分以外の人間に自らの身を委ね依存するという、つまり自らの命を他者に委ねるという、とてつもなく無限に開かれた「信」の関係を他者との間に感受する世界に分け入ることであると言っていいとおもいます。つまり、人間は依存しあってこそ生きていけるのだよということを、お母さんとの授乳行為の繰り返しの中で学んでいるのだといえます。

 余談になりますが、小生のセラピーの専門領域ともいえます「依存症」を発症せざるを得なかったひとたちには、胎児・乳幼児期にこの他者との深い愛情にもとづく依存の関係のとり方に、何らかの原因があって躓いたか、或いは失敗したという共通する要因がこころの奥底に潜んでいるようにおもいます。依存する術を知らない、或いは依存させてもらえないまま幼い頃から自立を強制される、或いは無自覚のまま早期自立してしまうということは、他者との関係を築けないという孤立を余儀なくされてしまいます。つまり、幼いころに早く自立することに追い立てられたり、自立せざるを得なかった場合、それは自立でも何でもなく、単に孤立してしまうことなのです。孤立してしまったあとに残されるのは、社会との関係のとり方や人との付き合い方などに対する怖さや戸惑いが先にたち、人以外への依存を深めていくという逆立した世界に生きざるを得ないという結果をもたらします。「依存症」における依存とは、実は本来の依存とは真逆の孤立なのです。

 赤ちゃんが生まれて最初に抱く大きな恐怖感、それは入眠行為における存在が消える、即ち死への恐怖です。それを払拭しうるきっかけをもたらしてくれるのが、お母さんにしっかりと抱き寄せられておっぱいをもらうことができるという、依存することの心地よさなのだといえます。この時期のことを「母親必須の時期」と言っていいとおもいます。ですから、この時期は父親の役割はといえば、母子関係の密着の度合いを深めていく環境を守り抜くということに尽きるわけです。本題から外れますが、昨今「イクメン」などいう胡散臭い言葉が乱れ飛び、厚労省が流行らせようと躍起になっていますが、乳幼児の自然な発達を阻害することはあっても、決して乳幼児にとって何の益にもならないことは、この依存する対象を赤ちゃんが見失ってしまうということからも明らかです。つまり、母子関係という赤ちゃんにとって鮮明かつ自然で、最も大切な関係を父親が早期介入し過ぎて壊してしまうことになるからです。厚労省の「イクメン」戦略は育児というよりも、労働市場の改革といったほうに戦略が置かれていますから、こどもの健全な成長などといったことはきっと眼中にはないのでしょうね。もっと言えば、待機児童の解消のために父親に育児休暇をとらせようとする、安易な見え透いた魂胆がその背後に見え隠れしています。

 さて、こうして入眠にまつわる恐怖感を、お母さんに依存することを通して越えることができた乳幼児が、次に恐怖心や不安感に遭遇するのが母子分離の頃です。それまでは赤ちゃんはお母さんとの一体感、つまり、お母さんの喜びや哀しみは自分の喜びや哀しみ、お母さんのしたいことは自分のしたいことといったように、まさにお母さんは自分、自分はお母さんという状況の中で、すくすくと育ちます。ところがある日を境にして、ひょっとして自分とお母さんは別々の存在なのかということに、おぼろげながら気づきはじめます。それは赤ちゃんがこの地球に対してはじめて逆らって立つという、二足自立歩行がはじまった頃といっていいとおもいます。お母さんと自分とがまったく別々の存在なのだと知ったときの赤ちゃんのショックは、計り知れないものがあります。自分がこれからどうなってしまうのだろうという大きな不安感と恐怖感であるのですが、それまでにたっぷりと他者に依存することをお母さんから学んだ赤ちゃんは、周囲に居るお父さんや兄弟などに依存するという自らの術を通して、この恐怖心を払拭していくのです。この時期からを「母親必要の時期」といっていいとおもいます。

 因みに自閉的傾向をもつこどもの中にも、実はこうした不安感をまだ乗り越えることができていないにも関わらず、つまり、乳児自身が自ら安心して依存しうる場所を確信しえないまま、外に放り出されてしまった結果、孤立感を深めていってしまったという傾向のこどももいます。人は誰でもそうですが、自分が帰ることのできる場所があるとする帰属意識があってこそ、安心してものを考え、積極的に物事に関わることができるものです。わたし達大人でさえ、帰るべき場所がしっかりとあるからこそ、外の世界への関わりが安心してできるのですから、乳幼児であれば尚更です。嫌なことや辛いことがあれば、いつ帰ってきてもいいよという場所が確信できるからこそ、乳幼児も外に向かって勇気を奮い立たせて冒険することができるのであって、その準備ができないままに外の世界に向かわなければならないこころの頼りなさは、想像して余りあるといえないでしょうか。それは、わたしたち大人も異文化にはじめて出会ったときの心細さによく似ています。

 幼稚園時代というのは、幼児にとってまさにこの二つの不安感をまだまだ引きずりつつ、その一方でお母さんからの授乳や抱っこによって培った依存することの心地よさに強く支えられて、新たな環境の中に分け入っていく時期といっていいとおもいます。因みに、何故人間のこどもだけが他の動物に比べてこども時代が長いのかといえば、わたしたち人間は自然を産みの親とし、社会を育ての親として生きています。それは自然界にあって、もっとも弱い存在であったわたし達人間の祖先が、気の遠くなるような年月を経て子孫のために遺してくれた智恵なのです。つまり、環境に甘んじて生きるのではなく、環境に適応しつつも、その環境を人間が生きやすい方向へと調整する暮らし方を編み出したことにあります。そのために赤ちゃんとも言えども、これから生きていく世界を意味の世界に変換する能力が求められるのです。例えば、おしっこがしたくなったとき、どこにでもしてはいけないのは、もとはといえば、自然界で弱かったわたし達の祖先が外敵から身を守る目的で囲いが作られ、そこで用を足すことによって敵の脅威を少しでも減らすというものでした。長い歴史の中でそれが約束事に意味変換され、排泄はトイレでするという行為の意味づけがされたものです。

 自らがこれから生きていく世界を、他の人々が共有する仕方と同じ仕方で意味の世界として理解していくというのは、多くの練習を重ねなくては到達し得ないものなのです。それはある意味において、人類がたどった壮大な歴史をはじめからたどる、気の遠くなるような作業なのです。そうであるからこそ、人間のこどもだけが長い練習期間、試行錯誤が許される期間を設けられていると言っていいとおもいます。そのような時期に孤立させられてしまうようなことがあれば、いったいその子の成長はどのようになってしまうのでしょうか。その先には、どこまでいっても他人とかみ合うことのない認識のずれや、細やかな人間関係を築くことなどもできず、常におどとした人生が待っているだけといっても過言ではないとおもいます。

 お母さんに授乳してもらった際に味わった心地よさ、その心地よさがもたらしてくれる依存することの大切さ、或いは依存することによって得た不安感の解消と、外の世界へと立ち向かう勇気、これらは幼稚園時代から小学生時代を通して、こどもが健やかに成長・発達していくこころの土台を基礎付けるものと言っていいとおもいます。これほど重要な授乳行為をこともあろうか、幼児の恐怖を煽るような、あるいは退行させるような目的に使った園長は、まさにこどもたちのこころに大きな心的ダメージを与えることだけに成功したのだと言っていいとおもいます。同様にして、今朝の天声人語にもあるように、小学校5年の道徳の時間にこどもたちに新聞を切り抜かせて「脅迫状」を作らせた教師が、批判を浴びた末に、「共同作業の大切さを学ばせたかった」と言い、小学校3年の算数の時間に「こどもが18人います。1日3人ずつ殺していくと何日で全員が殺せますか」などという無節操極まりない割り算の問題を平気で出すなど、世間の常識から逸脱した信じられない「事件」が教育現場で起きています。これらはまさしく狂育といえますが、これこそまさに早期に自立を強要された人間の成れの果てのひとつの典型、否むしろ犠牲者といえるとおもいます。

 長くなりました。最後までお読みいただき、感謝です。

 次回は、では、いのちの教育とはどのようなものでなければならないかを、具体的に明らかにしていきたいとおもいます。

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